御由緒
推古天皇3年(595年)、都濃郡鷲頭の庄、青柳浦の一松の樹に大星が降り七日七夜輝いて、「吾は天之御中主尊なり、今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし、其の擁護のために天降りし」と云う託宣あり。
同5年(597年)三月二日、大内氏の祖先、百済国の璋明王の第三皇子琳聖太子が来朝し、桂木山に御神霊を祀り北辰妙見社とたたえ、鷲頭の庄の氏神となる。
以来青柳浦は降松と改められる。
推古天皇11年(603年)高鹿垣に社殿を遷し、同17年(609年)鷲頭山に、上宮、中宮を建立する。
大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の地に若宮を建立し、大内義弘郷は、防・長・石・豊・紀・泉・和の七州の大守となり、応永元年(1394年)中宮に五重の塔、並びに仁王門を新たに建立。
七州の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集める。
慶長13年(1608年)火災に遭い、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は、大永三年(一五二三年)大内義興公の再建による。山門(仁王門)は、文化4年(1807年)氏子中の再建による。
大内氏滅亡後、毛利氏の厚い信仰を受け、元和年中には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は、明和四年(1767年)毛利就馴公の再建による。
明治三年降松神社と改称され、昭和三年県社となる。
境内は俗塵を払い古木鬱蒼とし、参拝者の心を粛然とさせる。
明治45年一大公園を設け「偕楽園」と名付け、春はつつじ・桜、秋は紅葉が錦を飾り、眺望絶佳にして、大正八年中将長岡外史は「周防第一園」とたたえ記念碑を建立する